いつもなら夕方やってくる憂鬱が今日は朝から居座っている。鉄よりも固い自己肯定の壁が立ちふさがって、要は私をつぶしてしまいたいということのようだ。わたしがつぶれたら喜ぶひとたちがたくさんいるだろうと想像すると、これもまあ仕方がない。ただ、私も最後まで節を曲げるつもりはないので、私は私ということにしかならない。
思えばこれまでもいろんな人たちが私を否定することでがんばってきた。それも認めよう。そういう方法もこの世界にはある。この世には私怨をこめて左遷をやる上司もいれば、自分が権力を振り回す立場にありながら、『権力におもねるやつ」などという言葉を人に向けて平気で使う人もいる。個人的に気に入らないという理由で悪口のために紙面を使う新聞記者もいる。一緒に仕事をしたのにそれを経歴から抹殺するアーティストもいる。私はこういう人たちを架空ではなく、全て実際に知っている。
ある日『黄金町バザール』を見に来て、「これ山野さんがやってるんじゃないんでしょう?だからいいんだよね」と言った人がいた。
でもまあ、やはり世界はそうやって出来ているのだ。大変残念なことには違いないが。
彼らは多分自分は正しいことをしたのだ、正しいことを言っているのだと思っているだろう。
ではそんな時アートの役割とはいったいなんだろう。こういう世界の中でアートはなにが出来るのだろう。