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今日、事務所の机の片付けをしていたら小冊子が出て来た。2008年発行の美術評論家連盟会報でたまたま依頼があって原稿を書いたが、もちろん私は会員でもなく、この冊子に原稿を書かせていただいたのもこの一度きりだった。おそらく誰の関心を引くこともなかったようで、リアクションもまったくなかった。読み返してみたが、残念なほど今の私と意見が変わっていない。すでに役割を終わった文章だが、パソコンの中にまだデータが残っていたので、ここに再録してとりあえず記録として残すことにする。訂正はただ2カ所、他の人に責任を負わせるわけにはいかないので「私たち」を「私」と書き直した。そして誤字の訂正をひとつ追加。
ミュージアム・シティ・プロジェクトから現在へ
私のような現場の人間はいつもアートと日常の境界線上にあって、どちらともつかない場所で仕事をしています。習慣的に理論化は後回しになりがちなので、むしろ誰かが代わって適切な説明をしてくれると助かります。
ミュージアム・シティ・プロジェクトは1990年に始まり、1991年の『中国前衛美術家展[非常口]』と1999年の『ヴォッヘンクラウズール:アートによる提案と実践』を例外として2年に一度のビエンナーレ形式で2000年まで継続し、その後『天神芸術学校』、『アートバス』、『アートホテル』、『アートセンター』などそのほとんどが中断したままのプランを抱えながら現在に至っています。実態としてはすでに複数のミュージアム・シティ・プロジェクトがあるようで、仕事ごとに違うチームを編成し、終われば解散しています。
1989年、私と数人の仲間が福岡市の都心部の美術展を思いついたとき、私はパブリックアートという言葉をおそらく知りませんでした。ただし、1987年に開催された『ミュンスター彫刻プロジェクト』の話を漠然と聞いたことがあり、私たちの構想がそれに似ているとも言われていました。後年、実際に『ミュンスター彫刻プロジェクト』を見て、とてもわれわれが太刀打ちできるような規模ではないことと、公共とアートとの間にはるかに親和性があることを感じさせられました。つまり福岡市の場合より、アートは都市に受け入れられているように見えました。 『ミュンスター彫刻プロジェクト』はヘンリー・ムアの彫刻設置計画に対して市民の間に賛否の声が上がったため、公共の場所における芸術作品の設置について改めて議論する機会を持つことを意図して開催されたと言われています。その作品の多くは今で言えばテンポラリーなパブリックアートでした。つまり期限付きの仮設的な作品の設置によって都市とアートの関係について考える実験の機会を10年に一度(!)設けることにより、長い時間をかけてアートが少しずつ街の人たちに受け入れられるようになることを意図していたと思われます(一方でパーマネントと思われる作品もいくつか残されていたのは主催者側の作戦でしょうか)。それは私には確立されたパブリック(公共)と確立されたアートの間の対話がすでに前提されている出来事のように見えました。それらはもともと共通の根から発生していたので、成長の時間差、あるいは近代的な環境と伝統的な環境の間の選択と共存の問題として話し合うことが可能だったのだと思います。 福岡市の場合、事態はまったく異なっていました。およそ20年前の私たちにとって、公共とは、強い権限を持つ行政と、法律や条例による制約と、企業の利益追求が優先する場所でした。 それらは当然アートに敬意を払う義務を持っていませんでした。しかしその中にも小さな種はあるもので、行政と民間のわずかな人数が集まって組織を作り、10年間の計画を立てました。ストーリーはこうです。都市とアートの関係が少しずつ形成されていくうちにお互いはお互いを認め合うようになり、結果的に都市もアートも現在とは違うものへと姿を変えるだろうと。遠大な計画で、今思えば10年では短かすぎました。 20年前の外的な要因として街の大きな変化がありました。都心部の再開発によって、新しい商業施設が次々に生まれ、それぞれにホールやギャラリーなどの文化施設が併設されました。私たちのプロジェクトもこの動きと連動するように始まったのですが、同時に地元の老舗の後押しなしでは話を取りまとめることも出来ませんでした。結果的に再開発のその後の進展が老舗を疲弊、倒産へと追いやり、私達のプロジェクトを実質的に終息させるという皮肉な結果をもたらしました。 経済の流れによって始まり、同じ流れによって終わったと言えます。現在のようなクリエイティブシティという概念もなく、アートを都市と関係づけて考える時の限界がむしろパブリックアートという概念に含まれていたのかもしれません。 1990年の『ミュージアム・シティ・天神』は住民が誰もいない商業施設エリアの展示でした。都市とアートが寄り添うというパブリックアートの幻想はパブリックの概念では規定できない日本の都市においては再開発の幻想の中でしばらくその居場所を見つけるものに過ぎません。 ミュージアム・シティ・プロジェクトの活動はその後コミュニティとの関わりや都市のシステムに対する介入へと関心が移っていきます。 私はこの話をもう少し普遍化して他都市との条件の個別的な違い、特にアジアにおける都市とアートの関係の問題として考えるようになりました。 私は日本のコミックやアニメがアジアの共通言語としてアートの世界に取り入れられて流通している、という状況がアジアにおけるアートとコミュニティの関係の問題がまだ解決されていないということを覆い隠しているかもしれない、という危惧を感じています。併せて、私はもうひとつの危惧についても述べたいのですが、それは(日本以外の)アジアが日本のアートを果たして必要としているのだろうか、そしてこの問題もコミックやアニメが日本発の文化であることによってやはり覆い隠されているのではないか、ということです。後者についてはすでに事情は大きく変わりつつあるかもしれません。私のこの感想は10年以上前に当時一緒に仕事をしたアジアのアーティストたちが日本のアートについて何も知らないだけでなく、ほとんど関心さえ示さない、という場面に何度か出会ったからです。 これはすでに事情が変わってしまっているかもしれないので、ここでは取り上げないことにします。 私は都市においてアートが常にアートであることは出来ないと考えています。しかしながら日本を含むアジアの多くの都市がアートの自己同一性を都市の現代化(再開発)の中で救済し、延命しようと試みているように見えます。アートがアートであることを制度によって保証し、流通させようとしているかのようです。 最近気になることのひとつですが、特に東アジアでは政治的メッセージを含む作品が必ずしも商業主義的成功と矛盾しない、という状況がしばしば見受けられるようになりました。 金を稼いで何が悪い、と言われればそのとおりなのですが、私が気にしているのは政治的メッセージを含む作品のブランド化が進行しているのではないか、ということです。ブランド化とは言い換えれば、すでにあるものと同じメッセージを繰り返す、という作業であり、そしてその作業によって例えば日本から見た中国のアートシーンのイメージを維持する、という距離の確保を行うことです。私自身もこの操作に協力しています。例えば私がロングマーチを招いたように。ただ、少なくとも私は自らの活動を誇示する機会を与えるために彼らを招いたわけではなく、共通のテーマのもとにアジアのいくつかのプロジェクトチームが集まり、互いに参照し合う機会を持つべきであると考えていました。そしてすでにネットワークの種は蒔かれていました。私はそれにいくつか追加をしてみて、ネットワークの再編(と更新)が進行すればよいと考えました。ここで、先ほど捨てて来てしまった問題にちょっと立ち戻る事になります。日本(漠然とした単位を持ち出して申し訳ないのですが)は今そのネットワークの一員なのか。 我々の個人としての自己意識、個人的付き合いはさておき、外から見た時、日本はひとくくりで排除される可能性を今も持っていると思います。トリエンナーレの調査である国のアーティストと会った時、彼は私達のリクエストに応えてプランを出して来ました。それは領土問題で日本ともめている島の模型に自国の旗を立て横浜の海に浮かべる、というプランでした。彼は日本人に会いたくなかったのか、あるいは早く追い払いたかったのでしょうか。一方台湾では常に政治の動向がアートの状況に影響を与えてきたそうです。中国文化中心主義から台湾アイデンティティへの方向転換も政治的背景があってのことでした。 福岡では1998年から民間のギャラリーが台湾の現代アートをシリーズで紹介するようになって彼らの存在が身近なものとなり、そして1999年、福岡アジアトリエンナーレに初めて台湾のアーティストが招待されました。 台湾のアーティストの多くは自分が2重、3重あるいはそれ以上の文化的背景に同時に帰属する存在であることを強く意識しているようです。私はアーティストが国家という境界線とは別の枠組みを意識した時、そこで彼を支配し、支えていたフレームがばらばらと複数化して、それらがひとりのアーティストの中で働いている場面が可視化されていく瞬間を想像します。例えばこの可視化されたフレームのひとつが近代であり、別のひとつがコミュニティであるとして、その中でどのようなバランスをとるのか、それが都市とアートの間で関係を形成する時に起きる出来事だと思います。そしてこの意味で私は台湾のアーティストに興味があります。これは共有可能な課題であり、今なおアジアのアートにとってテーマのひとつでありうる、と考えています。 昨年開催された広島の『旧中工場プロジェクト』のシンポジウムはそのタイトルに『広島でアートは可能か?』という設問を掲げていました。奇妙な問いに聞こえますが、それほど奇妙とは言えません。柳幸典のディレクションによるこの展示は旧日本銀行と旧中工場の2会場を拠点に開催されましたが、シンポジウム開催の趣旨のひとつとして旧中工場を将来アートセンターへ転用しようという提案が含まれていました。 私はアートセンターをアートの境界線上をなぞるように機能するものだと、いつもイメージしています。私たちは例えばある都市において何故アートが拒絶されることがあるのか、という設問を立てることが出来ます。そしてそれが必ずしも啓蒙的な活動によって解決されるわけではない、ということも繰り返し体験しています。都市とアートはどのようにしてその接続点を見出すのか、私はアジアの多くの都市でその問いが問われているかもしれないと想像します。ある都市では近代化の徹底によって都市とアートはやがて地続きになると考えているかもしれません。アジアの各地でビエンナーレやトリエンナーレの開催が増え、新しい美術館が建設され、再開発にアートが組込まれることなど、すべてはそのまま受け止めるなら、アートに対して更なる近代化の徹底を要求しています。私が気になるのは、それらすべてが果たして同じただひとつの方向に向かっているのだろうか、ということです。私たちはすでに近代以前にいるわけではない、しかしすべての近代化が同じ道をたどるのかどうか、小さな違いの中に可能性を見つけることが重要であるとすれば、柳幸典の企画は大変象徴的な意味合いを持つ出来事だったと思います。 (黄金町バザールディレクター 山野真悟)
by kitanakaw301
| 2016-01-22 22:41
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