一昨日のこと、美学校の校長、藤川公三君がお台場に現れて、今泉さんの遺稿集が出たから買えよと言う。昨日AMAZONで注文したら早くも今日届いた。福岡の出版社、海鳥社から刊行。西さんはもう社長をやめたらしい。
私のような初期の美学校生から見ると今泉さんと川仁宏さんが美学校に最初からいた人であり、美学校を作った人に見えた。おそらくそうだろう(川仁さんについてはまた別に書こう)。
今泉さんの本は、私には冷静に読むことがむずかしい種類のもので、おそらく生きて話している今泉さんの印象が強いことと、私の若い時代をまるごと見られてしまったような恥ずかしさが拭えなくて、気持ちが落ち着かない。以前田村治芳が今泉さんの小説を集めて刊行した『ビッグ・パレード』もわざわざ今泉さんの手紙付きで送っていただいたが、全部読んだかどうか自信がない(そう言えば今泉さんはとても筆まめな人で、短い手紙を時々いただいたが、恥ずかしがりの私はほとんど返事を書いたことがなかった)。
菊畑茂久馬先生が出していた雑誌『機関』の今泉さんの特集号は、その自筆年譜がおもしろくて丹念に読んだ覚えがある。
私の美学校時代には、ほとんどまともに話をする機会もなかったが、卒業してからは東京に行くたびに美学校の事務室を訪ね、焼酎のお裾分けをいただきながら、いろいろ話を聞かせていただいた。当時、焼酎の手みやげを持っていくほどの知恵もなかったのは若造の浅はかさである。
なぜだか理由は忘れたが、そしていつのことだか、荻窪のガード下で今泉さんとふたりで飲んだことがある。甲類の焼酎とピーナツだけの簡素なものだったが、でも今泉さんとふたりというのはおそらくこれっきりで、今では特別の思い出になってしまった。
巻末の年譜を見ると(一部昭和の年号が誤植になっている)、2000年に美学校の校長を退任されたが、こういう体制の移行期にはどうしても悪役が必要なので、私がその役を買って出ることになり、新体制作りを手伝った。私を講師にしたのは藤川君だが、私は無理を言って小沢剛君を引っ張り込んだり、裏で動いた。そのせいか、私は今でも美学校では評判が悪い。
本を何も読まないうちに書いてしまったが、この文章を読まれたみなさんはぜひ買って読んでください。戦後美術に関する貴重な証言が詰まった内容であり、そしてただひとり戦後美術史の中で例外的なポジションを自らに課したことによって誰にも出来なかったことを成し遂げた、あえてそういいますが、そういう人だったと思います。
藤川君によれば来年、美学校は50周年を迎えるらしい。思わず、みんな死んでるんじゃないの、と言ってしまったが、そんなはずはない。50年ぶりに会える人がいればぜひお会いしたい。