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1988年の日記帳の後ろの方に死の直前の新開一愛のことを書いた文章を見つけた。縦型のクラウンノートで4ページ、鉛筆で書いている。見舞いに行ったときのことを割合細かく書いているので、死後すぐに書いたものだと思う。
以下字句をいっさい修正せずに再録します。 この二ヶ月程姿を見ない、またどこかに行ったのかと思っていた。IAFへ行くと病院へ電話をくれ、ということでその電話番号とかけてもいい時間帯のメモがあった。 かけてからかなりの時間がたってやっと出た。再入院したので見舞いにこいという。最初に入院した時、やはり電話で見舞いぐらい来いよ、とどなっていたが、その時は結局いかなかった。今度は行くと約束した。病院にいない時があるから事前に電話をしてくれと言う。 数日して福岡駅の改札を通ったところで、反対の方から若い女の子を連れて歩いてくる彼に会った。ネクタイをしていつもより少し身ぎれいにしていたが、さらにやせて、上半身をちょっと前かがみにしながら、ポケットに手を入れてゆっくりと歩いていた。私達は同じ電車に乗り、少し話をして、私は最初の駅で降りた。見舞いは何がいい?と聞くと「美術手帖」を持ってきて、と言った。 何日後かに私は美術手帖を買って病院へ行った。受付で面会時間までまだ二時間ばかりあるとわかり、外で時間をつぶしまた病院へ戻った。途中でコースをまちがえて小児病棟の方へ行ったらしく看護婦さんから、ここは靴を脱いで下さい、と言われた。相部屋の病室にたどりつくと彼は寝巻でもなくベッドの上に坐っていた。Mさんが来ていた。彼は以前とあまり変りなく話をしながら夏みかんを食べたり、私達に紙コップで霊芝を飲ませたりした。本を渡すと開きもせずに古いのでよかったんだよと言った。Mさんが帰ってから彼はコーヒーを飲もうと言い、今使った紙コップと紙のフィルターのついたコーヒーを持ってすぐそばの食堂へ行った。やかんで湯をわかしてから窓ぎわにすわった。ここは例えば九大病院などに較べるとどの部屋も塗装がきれいで、はるかに静かだった。 彼は笑いながらこういう会い方は嫌だね、と言った。確かに病人と見舞いの客が白塗りの部屋に座り、外には木立が見える、とはいかにもという感じがして居心地がわるかった。 彼はコーヒーをあまり飲まなかった。これからが正念場なんだよという意味のことを言った。彼はまだ勝つつもりでいた。もうすぐ食事で、いてもいいけど、と言いだしたので私は帰ることにした。 それからまた私はしばらく行かなかった。もう行かない方がいいと思っていた。ごくたまに髪の毛がなくなった彼が出没しているという話を聞いた。 二ヶ月あまりたった頃、幻邑堂の助さんが電話をしてきた。もう面会出来ない日もあるらしい、今のうちに行っといた方がいい、ということだった。私がもう行かない方がいいのでは、と言うと助さんは、いや行けば喜ぶよ、人が好きなんだから、と言った。会えないかも知れないが、とにかく日曜日に一緒に行くことにした。 おそらくもう何も食べないだろうと思いながら、デパートでスープのかんづめのようなものを買った。助さんは店の近くで果物を買った。 部屋が変わっており、入っていいものかどうか少し迷ってそっとドアを明けてみたら彼とお母さんが居た。今日は比較的いいということらしい。熱が引かず、下半身はもう動かないということだった。今まで聞いたことのない、かすれた小さな声でしゃべった。それでもまだ来た人を楽しませるようなことを何か言おうと努めているように見えた。私はほとんどしゃべらなかった。助さんが時々話しかけ、それに時々答えていた。お母さんが前に会ったことがありますね、と言った。私はおぼえがなかったが、彼が、岩田屋の前ですれ違ったことがある、と言った。 帰る時、ふとんの外に手が出ていたのでそれを握るべきではないかと思ったが、またそれではあまりにも露骨な別れのあいさつのような気がして、結局しなかった。しかし別れだったのだからやはりそうすべきだったのかも知れない。 彼はタクシーの中や飲み屋で話に熱中するとよく私の手を握った。それはいくらか気持が悪かったけれど、彼の機嫌が良い証拠でもあった。 私は21才の時東京から福岡へ帰ってきた。そして割合すぐに彼と会った。たしか「サッチモ」という飲み屋に助さんと居た時、彼が後から入ってきた。助さんが両方を紹介したが、もちろんそれで友達になったわけではない。私が福岡のことも何も知らぬただの青二才(彼の言い方によればサンピン)であると思い知らせるべきだということなのだろう、その鋭い目と口で威圧しにかかってきた。助さんは当時の彼のことをよく「狼男」と言っていたが、なるほどそういうものだった。彼には論争術があった。彼は簡潔な問を発するが、しかしそれは答える方には多大な労力と言葉数を要するような問であり、そこでくちごもったり、もたもたしたりしているとさらに追いうちがくるというやり方だった。彼は大抵の相手をこれでやっつけた。私も返答する気力を喪っていたと言う意味ではやっつけられたのかもしれない。私は彼が勝負のような形で話を持ち出すことをやりきれなく思っていた。うかつなことを言うとかさにかかって攻めてくるというパターンは割合最近まであったけれど、ニュアンスは次第に変わってきて、後輩をたしなめるような、お前その程度の考えじゃ駄目なんだよ、と諭すような言い方になってきた。(以上) 記録のひとつとしてここに残しておきます。
by kitanakaw301
| 2017-12-01 14:59
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