私が今まで一番繰り返し読んだ本はジイドの『日記』の新潮社版5冊本で、それがほとんど暗唱出来そうなほどだったので、ひょっとしてと思ってフランス語版を購入し、挑戦してみたが、まったく歯が立たなかった、という思い出は以前ここに書きましたが、それ以外では彼の評論集をやはり何度も読み返していました。タイトルの本は1933年版のもので、多分昨年買ったものです。まだ本がりっぱだった時代の、大きな活字でゆったり組んだ本文はとても見やすくてぜいたくな感じです。同じ文章でも、読み返すにあたって、違う刊本、違う翻訳だと受け止め方もまた違ってくる、という気がします。
最近の再読は、いったい何が私に影響を与え、私の思考の原型を形成するのに何が作用したのかを再確認する旅のようなもので、それは同時に私の目標がどこにあったのかを再確認する作業でもあります。しかし繰り返し読んだものにはやはりそこに人を強く引きつけるだけの優れた内容があったということなのでしょう。再読の楽しさはそんな思いがいろいろ起きて来るところにあるのでしょう。
私がジイドを読み始めたのがいつなのかはすでに記憶の外ですが、初めて強く印象に残ったのは和気律次郎(漢字が違っていたらすみません)という人が英語から訳したオスカー・ワイルドの思い出でした。その後『パリュード』や『鎖を解かれたプロメテウス』、『愛の試み』などのシニカルな短編に優れた人であると感心するかたわら、『地の糧』は何度読み始めても最後まで読み続けられないという状態が、実は今でも続いています。