セルジオ・コルブッチは大変癖の強い人で、映画の中で時々やらなくてもいいようなことをする。イタリアB級娯楽映画の王様のような人だが、娯楽映画にしては不必要にくどかったり、全体のバランスが壊れても平気なところがある。最後に悪役が主人公を殺してしまった『殺しが静かにやって来る』はその典型的な例だが(雪の中の西部劇という設定はいいとして、しっかり除雪された道路が出て来たりするのはどうかと。あまり気にしてないのか)、その他『スペシャリスト』にしてもせっかくの銃の名手のはずが最後はたいして銃を使うこともなく、文字通りぐずぐずの状態で終わってしまう。昨夜見た『リンゴ・キッド』もそうだが、銃の名手が出て来る映画なのに、この町は銃の持ち込み禁止だ、という設定は、どうせ主人公が再び銃を持つまで退屈な場面が続くのだろうな、と思っていると、やはり予想通りにそうなので、これは大変損な設定だと思うのだが。『続荒野の用心棒』は奇跡的にそのバランスがとれている例で、この映画も中間は少し退屈だが、少なくとも最初と最後がしっかりしているために見るに耐える映画となった。
タイトルの再見は『リンゴ・キッド』のことなのだが、昨夜は多分初めてではないと思うが、ほぼ記憶にない『地球の静止する日』を眠りそうになりながら見た。チープなSFと設定は全く変わりないよくある話なのに、いい監督がお金をかけて作るとこうなるのかという見事なできばえ。
再読は増淵健『西部劇100選』。最初に読んだ時にさらっとながした地味目な作品群についておさらいしています。初読でありながら行ったり来たり再読しているのは、今更と言われそうな、蓮實重彦『シネマの記憶装置』。この人、私よりずっと年上だと思っていたら年下でした。
文中にしばしば出て来る「醜い」とか「醜悪」とかいう評価はあまりついていけないのですが、肯定においてはあくまでも対象に即しているようなのに、否定的言説においては相手はなんでもよかったというか、目の前にたまたま『スターウォーズ』があったからたたきのめした、というほどの印象で、黒澤明は小津や溝口に較べればたいした監督ではないとか、ことさら強調しなければいけない時代だったのでしょうか。