暗殺によって横井小楠という機械は停止する。しかしその停止したところから再び始めようとする人たちがいて、彼らは日本の明治以降の動きをまるでパラレルワールドのように今あるものとは何か別のものとして再構築しようとしていた。アジア的な近代とは何だったのか。そしてそれが持ち得たかもしれない別の姿を描いてきた人たちを探し出すことが、例えばアジアの近代美術の流れを捉え直す上でも重要ではないか。私はすでにこのような本文のない序文のようなものしか書けないが、今後の実践的な仕事の中で、この本文にあたるものを探し、そして一緒に仕事をしてくださる若い人たちとともにこのことについて考えていきたい。
アジアはそれぞれの国がそれぞれのありえた未来を指し示す思想を持っていた。アジアの若いアーティストや研究者たちが今目の前にある問題に立ち向かおうとする時、それら過去の思想は過去であることをやめて、今われわれの前にもう一度よみがえってくる。
そして私たちはお互いにお互いを参照し、自分自身を更新する機会としてそれを捉える。