今日、ジュンク堂で大型の本を買いました。シャルル・フーリエ著『愛の新世界』という。
フーリエ関係はとりあえず買う、ということで、買っていますが、伝記もかなりの厚さでまだ全部読んでいません。
フーリエ自身の本も読み始めると面白いのですが、全部読むのはなかなか大変で、どれも中途半端なところで止まっています。
彼の面白さは、、例えば虚栄心であるとか、嫉妬心であるとか、一般的にはないほうがよろしいとされる(しかし決してなくなることはない)人間の一面を、むしろ能動的なエネルギーとして生かそうではないか、という発想にあります。大賛成です。
フーリエの話はまた今度にします。
さて問題は「大型の本」ということで、最近分厚い新刊をよく見かけます。先日『露伴九十九章』を買った話は書きました、これは部厚くても読みやすいだろうと思って買ったのですが、意外にもあまり読み進んでいません。しばらく持ち歩いていたのですが、先日の旅行の機会にカバンから本棚へ移動しました。少し持て余したのか。
最近もう一冊買ったのが手塚治虫『ぼくの孫悟空』オールカラー版。これもかなり分厚い本ですが、思わず跳びついたのは、この本には特別の思い出があるからです。
小学生の頃、私は光文社版の手塚治虫全集『ぼくの孫悟空』第1卷を、いとことふたり、博多の大丸デパートまで歩いて買いに行きました。片道3時間ばかりかかったと思います。歩いて行ったのは、当然本の代金分しか持っていなかったからです。多分ふたりで少しずつ貯めたお金だったのでしょう。
当時、手塚治虫の本はガラスケースに入っていました。
ふたりはその本を買い求め、これからの計画についていろいろ話し合いながら家に向かったと思います。
計画とは自分たちも共同で孫悟空の漫画を描くということでした。
私たちは普通のノート(それも決して安くはなかったのでしょうが)を上下2段にコマ割り(?)してすべて鉛筆で描き始めました。まったく手塚治虫のストーリーをなぞるだけのどうしようもないものだったと思います。
というのも、今回本物を見て、私はかすかに自分たちが描いていたものを思い出したのですが、どう考えても本物以外の展開はなにもしていなかったようなのです。
このノートがどこまで進んだのか覚えていません。たいして描かないうちに終わったと思います。宝物のようにしていた本の行く末も忘れました。多分誰かが借りて行って、友達のあいだを回っているうちに、いつか消滅したのでしょう。昔の漫画の本はだいたいそういう運命をたどるものでした。
それにしてもなつかしい本です。私は最初の方を少し読んで、他の分厚い本と同じように中途半端のまま本棚に戻してしまいました。読まなくてもいいかな、という気持ちです。でも読むかもしれません。