ギャラリーの片付けが始まりました。作品は梱包されてまたアーティストのところへ帰っていきます。と言いながら帰らない作品がありました。井上さんの作品はしばらく私の自宅でお預かりします。出来ればどこかの壁を空けて展示しておこうかな。
私の父は油絵を描いていました。私が小学生の4年生くらいまでは6畳と4畳半ふた間に家族4人、いや、大抵は生活が苦しい親戚の人が長期に渡って居候しているような状況の中で生活していたのですが、そんな環境で父が絵を描いていたので、家中に油絵具の臭いが充満し、畳や服にもよく絵具が付いていました。実は今でも私は油絵具の臭いは苦手です。しかし当時はもちろん家が狭かったので分かるのですが、その後もう少し大きな家を新築した時、そして更にそれを増築した時、私の父は油絵を展示する壁面をまったく考慮しませんでした。掛け軸を掛けるところはありましたが、油絵の方は小さな作品を鴨居を利用して掛けるか、または玄関に100号くらいの作品をひとつ置く程度で、自分の作品を展示するということにはあまり関心がなかったようです。その家を引き継いだ私は、多少は手を入れて作品を展示するスペースを作ろうとしましたが、それでも面積としてはわずかなものです。
父の右目はほとんど見えていませんでした。子どもの頃、電柱の上の方がどうなっているのか知らなかったそうですが、これはあるいは栄養不良か、脚気が原因だったのでしょうか。ただ父の家は当時の農家としては裕福だったそうで、子どもの頃自分用の馬を持っていた、という話を聞いたことがあります。祖母の一族の多くは浄土宗のお寺でした。
父は台北師範に行き、そして軍隊に入り、復員して小学校の美術教師になりました。
父は大きな絵を描く時いつも苦労していました。水平線を引くと、必ず右が下がっていました。私に指摘されると定規を使って修正していましたが、その修正されたラインは彼にとっては落ち着きの悪いものだったのではないでしょうか。大きな作品で成功した例は1点もなかったようです。そんなこともあって、彼は絵を掛けるスペースを作ることにもあまり関心を示さなかったのかもしれません。あるいは壁に掛けても本人にはあまり見えていなかったのかもしれません。
小さな作品はそんな問題を抱えてはいなかったので、もっといきいきとしています。
国鉄志免炭坑の竪坑周辺を描いた絵を1点、書斎に残しています。