いそがしくなると本を読みたくなるのは、子どもの頃からの悪い癖で、試験の前日いつまでも本屋さんでぐずぐずしては安い本を選び、遅い時間のバスで小さな活字を見つめながら家に帰ったものでした。昔のバスは道がわるかったのでよく揺れたし、照明も暗かったので目を凝らして活字を追いかけなくてはなりませんでした。そしてそのまま本を読み続けるために深夜になってもなかなか寝付かれず、母はそんな私を不眠症ではないかと心配していました。ただ本に刺激されていろいろな思いが頭をかけめぐり、眠りそびれただけなのですが。
しかし思えば今では読書の時間はわずかなものです。寝る前にスタンドの明かりで本を読むのは相変わらずですが、あっという間に眠くなります。ミステリーとかあまりにもぶつ切りで読んでしまうので、誰が犯人?どころか、ストーリーが追いかけられない。しかしミステリーの話はまたいつか。
私が一番たくさん本を読んだのは多分二度の入院の時でしょう。それぞれ約3ヶ月の入院でしたが、最初はトイレより遠くへ行っては行けないと言われ、二度目はほぼ寝たきりで物理的に動くことが出来ませんでした。こんな時本を差し入れてくれる人があります。和田千秋は松本清張を持って来ました。『或る小倉日記伝』などこの時読みました。弟の奥さんは『鬼平犯科帳』をセットで持って来てくれました。とても面白かったのですが、時々色っぽい場面があるので、これは体の動かない人にはいけません。そして正岡子規を持って来てくれたのが誰だか忘れてしまったのですが、これは私にとって大きな支えとなりました。伝統的なジャンルの近代的美学への接続、共同作業としての藝術、社会とのつながり、そして彼の歴史的な役割、世代交代など、彼はまったく身動きのできない境遇でそのすべてを手がけようとしたのでした。
しかし時代は一巡していつのまにかもとに戻っています。私などがいくら警告してもまた同じことが起きるでしょう。どうにもなりません。権威主義と力は違うのですが。